2017年文学フリマDebby Pumpアワード

この一年で文学フリマに出品された作品の中から、特に優れたものを、Debby Pumpが独断により決定し表彰する賞。(※文学フリマ事務局様公式の企画ではありません)

最優秀小説冊子賞 選評

 

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『元カレは皆、亡き者と思う。』

 この本を読んでいる間、ずっと私の胸はざわざわとしていた。三度目の通読でも変わらなかった。そして、三度読み終えてもなお、そのざわざわの正体を明確につかむことができなかった。

 本作では度々“メンヘラ”というワードが用いられる。意味について改めて説明する必要はないだろう。インターネット界隈ではすでに基本用語的に定着したスラングだ。「メンヘラ文学」というのも乱暴なジャンル分けだと思うが、この作品を端的に表現するならば、そうなるのだろう。「恋愛小説」と言うと、しっくりこない。

 主人公は、作中で何名もの人物と恋愛関係を築く。そして別れるたび、相手の名前を書いたアイスの棒をプランターの土にさし“埋葬”する。本人は清算のつもりで行っているのだが、読者としてはどうしても、逆に心に釘打つような行為に見えてしまうのが面白い。そもそもそれは主人公の過去の恋人が行っている行為の真似なのであるという時点で哀しくまた滑稽なのだが、同時に主人公の切実さ、本来的な一途さが見えてくるようで良い。ひとりひとりに専用のプランターを用意しているのが、まさにそれを示しているように思う。

 驚くべきは、この“埋葬”という良質なモチーフを、実質的にほとんど展開へと関わらせなかったことだ。この点に、作者のある種の無作為さが滲んでいるように思う。それは、この作品の強い魅力の一つである。連作短編集の形で書かれる本作は、全編通しての展開がいささかわかりにくい。おそらく、意図的にわかりにくくしているのではなく、作者が書きたいように書いた結果がこうなのであろうと思う。ふつうはマイナスに働くところだが、本作ではその無作為さこそが特有の感情の迸りに繋がっている。これこそが例のざわざわの正体だろうかとも思ったが、確信はない。

 そして、本作のあとがきは、その無作為さの産み出す最後のトリックとして機能する。たった一ページのあとがきが、一冊すべての見え方を変える。やられた。

 

 

『猫の都合をきいてきて』

 この作品について簡潔に表すとなると「恋愛小説」「旅行小説」「グルメ小説」「東北小説」「3.11小説」と様々なワードが思いつく。本作は実に多くの要素を、強い物語の芯とメッセージ性を持って「エンタメ小説」としてまとめ上げた快作である。

 物語のつくりは、よく読めば伝統的な冒険物語の構造と近しいことがわかる。主人公の抱えるある種の問題があって、キャラクタたちの行動を通じそれが解きほぐされていく。例えば『昼の相席』では、「SNSの発達した現代、直接会うことの意味ってあるんでしょうか」と悩む主人公に対し、本作のヒーローたる数井さんは「直接会わなきゃ、乾杯できない」という実にあざやかな解答を提示する。描かれるキャラクタたちに確かな人間味があり、エピソードの説得力に繋がっている。数井さんという人物の造形は、とりわけ見事である。

 「3.11」「震災との向き合い方」というのが、本作の主題であり、主人公せり子の抱える大きな問題のひとつである。彼女は仙台出身だが、震災の当時はすでに東京在住の期間の方が長くなっていた。そこで、ルーツの問題が生まれる。自身に、震災を悼む資格はあるのだろうかと強く思い悩む。

 このテーマは、言わずもがな、非常に重い。しかし、この小説は非常に巧みなバランス感覚でそれと向き合い、見事に解決の一例を提示してみせた。そしてそれは、作中人物だけでなく、彼らと近しい悩みを抱く読者にとっての解決へと波及する。

 それから、この作品の魅力を語るにあたって、「旅行小説」「グルメ小説」としての側面を無視するわけにはいかないだろう。これを読んで、東北へ行ってみたいと思わない者がいるか、ほやチンコをやってみたいと思わない者がいるか。いや、いないだろう。芋煮を食いたいと思わない者がいるか、ほやを食いたいと思わない者がいるか。いや、いないだろう。作者の東北への想いは、こういった点にこそ強く現れているのだ。

 

 

『初期微動継続時間』

 SF、青春、バイオレンス、落語リミックスなどなど……。一見統一感のない作品の並んだ短編集だが、通読してみると、不思議に一貫したものを感じる。これが個性というものだ、と断じてしまうのは軽率だろうか。

 全体として、良い意味でナンセンスの色が強い。目次にて作者本人が“バイオレンス&ナンセンス”と評している『レッドアイ・イン・ザ・バー』をはじめ、SF短編『飛翔!』や落語リミックス『死神異聞』『落語「井戸の茶碗」』などは変な穿ちもなく面白く読める。この「面白さ」の重要性が、本作を読むまで、私の頭からしばらく抜け落ちていたような気がする。屈託なく楽しめる小説、笑える小説。それを狙って書き成功するというのは、作者の高い技量あってのものである。感服した。

 特に、会話のテンポ感が突出して優れている。失意識教授と爆発宮大臣のやり合いは最たるものだろう。知識人たちが理性を捨てて単なる暴言を吐き始めるまでの流れが実に淀みない。まったくテイストの異なる二作品でそのまま登場するスター・システム的な遊びも面白い。

 最後に、これはごく個人的な気持ちであるが……。落語リミックスもいいけれど、是非ともこの人の書いた新作落語を読んでみたいと思う。願いが届けば嬉しい。

 

 

『Who is the Resurrection?』

 非常に実験的な短編集である。そして、その実験は成功しているのだと思う。

 小説でしか表現できないものとは何か、なぜ自分は小説作品として表現しているのか、という問題を小説書きは皆一度くらい考えるものである。漫画ではダメなのか? 映画ではダメなのか? そこで「小説じゃなくてもいいけど、自分に書けるのは小説だから」と言う答えに行きつく人もいるし、「小説じゃなきゃダメに決まっている! 今のところ説明はできないけど!」と潔く開き直る人もいる。もちろん、どんな答えも間違いにはならない。正答なんてものは存在しない。

 この作者は、おそらくその問題について考え抜いた果てに、この作品に辿り着いたのではないかと思う。つまり「小説でなければダメである。なぜならこの作品は、小説でしか表現し得ないからだ」という回答をしたのだ。

 本作で用いられる技法のひとつに、目まぐるしいまでの時系列移動がある(いまひとつしっくりこない言葉なのだが、いかんせん他を思いつかない)。軸となる「現在」の時間軸はあるものの、その語りの途中で突然に「現在」の語り手が知り得ない「未来」の情報を提示したり、または脈絡なく「過去」の話をし始めたりと自在に動き回る。それも、たとえば一段落の中、読者が息つく間もないようなテンポで。漫画や映画でこんなことをやっても、受け手は混乱するだけだろう。小説だけが、その技法を面白く扱える。

 他にも優れた技法が用いられているが、この場で語るのはこれだけにする。是非とも自身で読んで、発見してもらいたい。私自身、いまだ発見できていない仕掛けがいくつもあるような気がしている。

 

 

【最優秀小説冊子賞 総評】

 ノミネート作品四作、いずれも唯一無二の強い魅力があり、選考は困難を極めた。

 『元カレは皆、亡き者と思う。』は滲み出るその無作為さが奇妙な魅力として働き、読者の感情に面白くも不気味な作用をもたらした。『猫の都合をきいてきて』は、精緻に練られたプロットが確かなテーマ性を基に完成され、読者の意識に強く影響する。バリエーション豊かな短編たちが不思議と一貫性を持ち並んだ『初期微動継続時間』は、ただひたすらに面白い。『Who is the Resurrection?』は実験性を重視しつつも、小説の面白さを強調することに成功していた。

 

 最終的に、斉藤ハゼ(やまいぬワークス)『猫の都合をきいてきて』を当選作とした。

 普遍的でありながら難しい「3.11」というテーマを、必要以上に重くならないように、しかし決して軽くはならないようにと調整し上手くエンタメ小説の中に落とし込んだ作者の並々ならない技量の高さ。そして何より、ほぼ直接的に読者の意識を変え、実際の行動に影響させるような訴求力の強さが決め手だった。